二つのドイツ(ハンブルク→西ベルリン)

[Berlin Zoologischer Garten駅]
西ベルリンの玄関、Zoologischer Garten駅

1990年2月24日。日本を発ったのが17日なので、すでに出発から1週間になる。4泊5日でロンドンを歩き回り、ロンドンから飛行機でパリに着いたその日の寝台列車でハンブルクへ向かった。寝台列車はロンドンのVictoria Stationの窓口で予約したのだが、いざ予約券を手に列車に乗り込むと何の手違いか、女性3人のコンパートメントに男は私1人という状況で、冷や汗をかいた。

今回の旅の目的は、前の年の11月のベルリンの壁崩壊に象徴される、社会主義の崩壊しつつある東欧諸国の様子をこの目で見ることだった。大学で一年留年したおかげで卒業旅行の時期と東欧の社会主義崩壊の時期が重なったのは幸運だった。もしすんなりと卒業していれば今ごろはサラリーマンになっていて、1ヶ月の海外旅行など不可能だっただろう。そう考えると、同級生の半数近くが一度は留年を味わうという、うちの大学の進級の厳しさも少しはありがたく感じられる。

日本から予約していったのは行き帰りの飛行機の切符と、ロンドンへ着いた日のホテル、それにパリから日本へ帰る前日のホテルだけである。あとはユーレイルユースパスという西ヨーロッパとハンガリーの鉄道の2等車が1ヶ月乗り放題のパスを存分に使って、トマスクックの時刻表と「地球の歩き方」をにらめっこしながら列車を乗り継ぎ、駅に着いたらその日の宿を探す、という初めての海外旅行にしては我ながら無謀とも思える旅行だった。

飛行機の後の夜行列車でハンブルクに着いて、その足ですぐに最初の目的地であるベルリンへ乗り込むというのも、体力的にきついし、せっかくヨーロッパへ来たからにはなるべく多くの土地を見て少しでも元を取ろうという気持ちもあり、ハンブルクでは1泊することにした。

西ベルリンは当時の西ドイツの領土ではあったが、東ドイツのど真ん中にある陸の孤島で、そこへ行くには東ドイツを通過しなければならない。ユーレイルパスが使えるのは西ヨーロッパとハンガリーだけだったので、翌25日の朝、ハンブルクの駅で東ドイツとの国境の駅からベルリン、ドレスデンを通り、チェコスロバキア(当時)のプラハを通ってオーストリアのグミュントという国境駅までの切符を買った。ハンブルク8:03発のベルリン行き国際列車に乗り込むと、いよいよこれからベルリンへ行くんだという実感がわいてきた。

ハンブルクから西ベルリンへは列車で4時間20分ほどかかる。ヨーロッパの列車はコンパートメント形式といって、向かい合わせの6人掛けの座席が一区画ずつ壁で区切られていて通路側にドアがついているのが大半である。土曜日ということもあってか、列車は混んでいて、出発するころには私のコンパートメントも6人すべて埋まっていた。

東ドイツとの国境が近づくと係の人がパスポートチェックにやってきた。パスポートを見せると、縦10センチ横5センチほどの通過ビザ(Transitvisum)をくれた。ところが二つ隣に座っていたおばあさんは係員と何か言い合いをしている。ドイツ語なので内容はよくわからないが、どうやらパスポートを持っていないようだ。しかし国境で列車から降ろすわけにもいかないのでどうやら説教をされたあげくビザだけはもらえたようで安心した。係員が出ていった後でおばあさんが隣の友達らしき人に

"Noch zwei Staaten."(ノッホ・ツヴァイ・シュターテン=まだ二つの国なのね)

と、ため息混じりにつぶやくのだけは聞き取れた。大学時代の第二外国語はフランス語だったが、ドイツ語も少しはかじっておいてよかったとこの時思った。東欧は昔ドイツ帝国の統治下に置かれていたということもあり、英語よりもドイツ語の方が通じるとガイドブックなどに書いてあったが、実際、英語はわからなくてもドイツ語なら片言ながらしゃべれるという人が実に多いのに驚かされた。この貧弱なドイツ語の知識がこの後、あちこちで役に立つことになろうとはこの頃まだ夢にも思わなかった。

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